顔が見えてる人が損するのはちょっと


何となく、WEB記事を読むことを最近制限していて、理由はもちろん、その記事を読んでいるうちに、どんどん関連記事にまで手を出してしまって、時間を浪費してしまっていることに気が付いて、制限しようと、そう誓ったのだが、関連記事が物凄く多そうな、最近話題の、曽野綾子林真理子コラム炎上ネタがあって、あーなんて論じてるんだ?と思って思わずクリックしてしまったのが、プレスラボ小川たまかさんの『「紙は炎上しない」は間違い 曽野綾子林真理子コラムに見る、著名人の「上から目線」が通用しないインターネット』という記事だ。

クリックして、林真理子さんを批判してないやん!と思うも、冷静に「雑誌とWEBは読者の質とマインド、そして筆者に対する気持ちの持ち方が違うんです」というメディア屋さんの模範解答のようで、今度、仕事でネタも含めて引用しようと思ったわけです。それにしても小川たまかさんの記事のタイトルって素敵だなぁ、なんかめちゃ頭よさそうで、思わずクリックした自分も頭良くなった気分になる。こちらも参考にしよう。

で、林真理子さんの炎上は、もう事件レベルで、全てのシングルマザーを敵に回すよな、とこっそり思っていたけど、何だろう、確かにそういう偏見も勿論あるし、林真理子さんの意見通りの人もいると思うし、それをシングルマザー全員に当てはめて言うセンスに「え!?」ってなるんだけど、もっとイラッとするのが、メディアを扱う人というか、会社がその記事をインターネットに解放したという点だ。小川たまかさんは、雑誌とWEBで記事に触れる人の質と著者への目のむけ方の違いをきちんと意識すべきと書いていた印象。僕は、最近思っていることを絡めて意見したい。


「顔が出ている人を守る義務がコンテンツを企画する人にはあると思う」

普通、メディアに記事や画像、動画など表現物が出る時は、色々な人たちが慎重にその表現物をチェックする。面白いと思っていたものが、人の審査の数だけ、面白い部分が削ぎ落とされ、「え、これ、何もおもろないやん」ってなって唖然として…そこまではいかないけど、面白さは少なからず失われる。

・誤字はないか
・書かれている内容に間違えはないか
・画像の順序や示し方に間違えはないか
・目的が伝わる表現にきちんとなっているか、もっと上をいけるのではないか
・筆者が非難されるリスクはないか
・書かれている内容で傷つく人はいないか
…などなど

色々な視点で本来、記事はチェックされていくと思う。
当然、広告よりコラムの方が、チェックは甘いとは思うのだけど、上記の事は絶対にチェックの対象になってくる視点であると思う。

メディア側、コンテンツを企画する側にいると、そのコンテンツがすごく面白くなって、たくさんの人の目に触れることを願う。当たり前だ。しかしそれが行き過ぎると、テレビなんかを見てて実感した人も多いと思うが「この芸人さんかわいそう、すごく痛そう」「うわーこの人こういう人なんだ、嫌いだわ」って、企画としては面白いのに、その企画のなかで一生懸命、与えられた仕事をした人が、かわいそうに思われたり、嫌われたりする。それは、果たして成功なのか。綺麗ごとなのはわかるが、面白いものができても、その企画から犠牲者が出るのは、ちょっと違うと思う。それは顔を出して企画を遂行した人に対するメディアの横暴ではないか、と思う。

今回、林真理子さんはシングルマザーを傷つける記事を書いた。書いたのは確かに林真理子さんだと思うのだけど、ネタやコラムの方向、細部の表現などきちんと、最終的に林真理子さんを通じて大きな利益を出す方々が気を配っていたか、気になる。「林真理子は炎上しやすいから、もう使うのはやめよう」確かにそれで切り離せると思うけど、そう切り離せてしまうからこそ、顔を出して、コンテンツを実際に作っている人を守らないとメディアはいけないと思うし、最終的にしっぺ返しが、メディアに跳ね返ってくると思うのだが、どうだろうか。

あるイベントがあって、それはモデルとかその界隈で有名なカメラマンなどが中心になって開かれたように見えるわけなんだけど、何となく、「こんなイベントでこんなに金をとるんだ…付き合いだから行くけどさ」という思いに駆られたりすることがしばしばある。多分、こういうイベントの裏にも、隠れたプロデューサーがいて、支えているように見えるんだけど、僕が思っていたことは、顔が出ている方に単純に、一瞬でも向いてしまって、そのイベントで、顔が出ている方は総合的に得をするか、と考えると物凄く疑問が残る。プロデューサーとか、企画を考える人の、その企画を実際につくる人を守る意識がもう少しだけ高まれば、無駄に傷つく人が減ると思うんだけど、これは綺麗ごとだとわかるんだけど、これが綺麗ごとと片付けられた社会で生まれたコンテンツは全部汚いものに見えてしまう。

楽しむ為に楽しませてる人の犠牲を払うのは、僕は違うと思う。